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日本の牛角に関する物語は「徒然草」の一説に後嵯峨天皇の皇女、延政門院が、御青春の頃、院に参る人に、おことずけの歌は「ふたつの文字、牛のつの文字、すぐな文字、ゆがみ文字とぞ君はおぼゆる」と送ったことが徒然草に出ています。
この歌は平仮名の「いの文字」の隠語(自分たちの仲間だけに通じる言葉)で、「い」の字の二つの画を牛の角の形とみなしたのでしょう。そこで二つの文字とは「こ」の隠語、牛のつの文字は「い」。すぐな文字とは「し」。ゆがみ文字とは「く」の隠語。つまり「こいしくとぞ、君はおぼゆる」という意味であり大変おくゆかしいものがあります。
さて「牛」に因んだ「人名」「地名」「伝説」「行事」等、数多くありますが、地名では、備前の国に現在、漁港として、また、日本のエーゲ海として知られる「牛窓町」(岡山県邑久郡牛窓町)があります。 この地域は飛鳥・奈良・平安時代には、大阪「境」に次ぐ「須恵器」を多く造っていた地域でもあります。この「牛窓」の地名は実に面白い伝説があります。
「昔、神功皇后(第14代仲哀天皇のお后)が備前の沖合いを通り給うとき、大牛が出て船を覆そうとした。住吉明神が、その牛の角をとって投げ倒したので、その地を牛転び(うしころび)と名付け、後に牛窓になったという。」
この物語は神功皇后が西口(九州)及び三韓(新羅)の賊を征伐した帰りに、備前沖で大物の賊と戦ったことが、たとえ話となり、伝説化したものであります。そして三韓より連れ帰った童子に舞を踊らせたのが「唐子踊り」であります。当時の姿で舞う踊りは異国情緒たっぷりであまりにも有名です。
備前地方には牛に因んだもう一つの由来がありますので紹介します。
牛神様として知られる田倉牛神社は(岡山県和気郡吉永町)、正式には「野上牛頭天王宮田倉牛神社」といいます。牛頭(ごず)天王とは、中国の史記「三皇本記」にあります炎帝神農(中国三代天皇の一人)の牛頭 であり、農業、薬草、易、商市等の創始者を守護神とした神社でもあります。
故に流行の病や、天地異変から護りを願って勧請されたもので、江戸時代には、岡山・池田藩が農業振興策の一つとして農家に牛を飼うことを奨励したので牛神社も一層賑わうようになりました。神社には拝殿はなく、御神体は彫刻された石の牛であります。その周りには、信仰によって献上された備前焼の小さな牛像が無数に積まれ、その数は十五万とも二十万とも云われています。
正月の五日は大祭で五殻豊穣・商売繁盛・交通安全・家内安全・結婚・就職・入学試験等を願ってお詣りする人は、備前焼の牛を献納する風習があります。また、祈願者が献納した牛像一体を借りて帰り、願い事の成就があったら、一年後には借りた牛像ともう一つの牛像を添えて、倍返しの御礼詣りをする習わしがあり、大勢の参拝者で賑わいます。
さて「丑」は易学では十二支の第2位、月暦では、十二月、時刻では一〜三時、方位は北北東であります。一年では一月の小寒から立春までの晩冬の一ヶ月であります。
「丑」の字は紐を意味します。万物が厳しい寒冷の地中にあって、やがて来る春を待ちながら忍耐強く鋭気を養い、活動に備え、力強く働き始める様子を意味しています。
牛の作陶に当たり、のんびりとした牛の姿、そして内面には力強く一歩一歩踏みしめ、一歩も退かない強い意志の牛を創造しながら、創作いたしました。
皆様の御健康と御繁栄をお祈りいたします。
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